俺達のHIPHOPは続く

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2012年 09月 07日

渋い1枚

昨日はラジオの収録にいってきました

予定よりも1時間前につき

ディレクターの村上さんとお話ししていると

なんとも渋い アーティストを教えていただきました

このアーティストです ↓

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ちなみに こんな人です ↓

ジョニー・キャッシュ(Johnny Cash、1932年2月26日 - 2003年9月12日)は、アメリカ合衆国のカントリー、ロック歌手・作曲家である。妻はジューン・カーター・キャッシュ(en:June Carter Cash)。特徴のある深い声、黒服の着用と振舞いから"Man In Black"というニックネームを得ている。

2003年に死去するまでに放ったヒット曲数は140曲以上で、そのヒット曲最多売上曲数は世界記録保持者エルヴィス・プレスリーの151曲に迫る数字である。レコードとCDの累計売上がこれまでに5,000万枚を記録しており、グラミー賞も11回受賞している。さらにロックの殿堂、ソングライターの殿堂、カントリーの殿堂、ゴスペルの殿堂に殿堂入りしており、ほかにも数々の受賞歴を持っている。「ロックの反逆性と、カントリーの哀愁、フォークの語り口」といわれる独特の世界を持つ歌が特徴でカントリー歌手のみならずポール・マッカートニーやリトル・リチャード、U2、ボブ・ディラン、カート・コバーン、キッド・ロック、アル・ゴアなどから熱いリスペクトを受けているアメリカ音楽史における重要な人物である。

前妻・ヴィヴィアンとの娘ロザンヌ・キャッシュやジューン・カーターとの息子ジョン・カーター・キャッシュ、ジューンと前前夫の娘カーリーン・カーターなども歌手でジョニー・キャッシュ・ファミリー名義でクリスマス・アルバムなども製作されたことがある。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」に於いて第21位。


プロフィール [編集]





ジョニー・キャッシュとニクソン大統領、キャッシュはこの時ニクソンに監獄法の改正を訴えた。1972年7月、ホワイトハウスにて。
1932年、アーカンソー州に生まれる。一家は同州ダイエスの失業救済局作業場で綿花を育て生計を立てており、彼も幼い頃から兄ジャックとともに家族の農業の手伝いをしていた。

1944年、ラジオで流れるカントリー曲に憧れ、このころからすでに曲作りを開始していたとされる。同年事故で兄をなくしており父親は冷たく彼に「悪魔はできる子のほうを奪った」と言い放ち、後年まで心の傷として深く突き刺さることとなる。当時兄・ジャックと共に好んで聞いていたのはカーター・ファミリーで、そのメンバーでカーター家の次女のジューン・カーターはのちに彼の妻となった。

1950年7月、朝鮮戦争に空軍兵として徴兵され西ドイツのランズブルクに駐屯。駐屯中に初めてギターを買い、独学で奏法を習得。曲作りも本格化する。

1954年、除隊され帰国しテネシー州メンフィスに移り住む。同年8月に最初の妻ヴィヴィアン・リベルトと結婚。訪問販売員などをしながら地元の自動車整備工2人とバンドを結成。趣味の枠内で音楽活動を続ける。同年末にメンフィスのローカル・レーベル「サン・レコード」のメンフィス・レコーディング・サーヴィスでレコード作りを依頼、「製作料は4ドル」と聞かされた金欠のジョニーは驚くが当時エルヴィス・プレスリー(1954年デビュー)のプロデュースに忙しかったサン社長でプロデューサーのサム・フィリップスに強引にオーディションのアポイントを取りつける。バンドのメンバーであるルーサー・パーキンス(ギター)、マーシャル・グラント(ダブルベースのちエレキベース)と共にゴスペルを歌うものの評価されず苦し紛れに歌った自作曲『フォルサム・プリズン・ブルース(Folsom Prison Blues)』により辛くも合格。因みにカントリー歌手になった後もキャッシュはゴスペルをしばしばライヴなどで歌っている。サン・レコードは他にも後にジョニーの紹介で契約するロイ・オービソンやカール・パーキンス、ジェリー・リー・ルイスといった多くの初期のロックスターを輩出していく。

1955年3月、サン・レコードからシングル『ヘイ・ポーター(Hey Poter)』を発売し「ジョニー・キャッシュとテネシー2」としてデビュー。ビルボード誌全米カントリーチャート14位を記録するヒットに(以下、ポップ・チャートも含め記録は全てビルボード誌による)。

同年12月、シングル『フォルサム・プリズン・ブルース』を発売。カントリー・チャート4位の大ヒット。この頃のツアーでジューン・カーターと運命的な出会いを果たす。また3歳年下のエルヴィスともツアーで出会っている。エルヴィスは直後にメジャーのRCAレコード(現・ビクター)に移籍するが、その後もしばらくはセットツアーで共演する機会が多かった。低音で「やあ、私はジョニー・キャッシュです。("Hello,I'm Johnny Cash.")」という舞台上の挨拶もこのころから確立される。

1956年4月、シングル『アイ・ウォーク・ザ・ライン(I Walk The Line)』を発売。初の6週連続1位を獲得。ポップ・チャートでも20位にランクインし人気歌手の名をほしいままにした。

1958年、"フルーク"の愛称で親しまれるドラマーのW.S.ホランドがバンドに加入し、バンド名は「ジョニー・キャッシュとテネシー3」に。ホランドはカントリー界で最初期のドラマーの1人。同年8月、大手のコロムビア・レコードと契約。

このころからロックンロールの紹介者であるアラン・フリード(DJ)の「ペイオラ(賄賂)疑惑事件」による解雇(1958年)やエルヴィスの陸軍入隊(1958年)、チャック・ベリーの裁判沙汰による失速(1959年)、バディ・ホリーらの事故死(1959年2月)など初期のロックンローラーが様々な事件事故に巻き込まれたことによりアメリカのロックシーンが急激に失速。

1963年、『リング・オブ・ファイア(Ring Of Fire)』がカントリー・チャート7週連続1位にランクイン。作曲はジューン・カーター。

1965年、違法薬物の一種・アンフェタミンをメキシコ国境から持ちこもうとし逮捕される。映画「ウォーク・ザ・ライン/君につづく道」劇中、キャッシュが薬物に手を出したきっかけとなるシーンではミュージシャン仲間のどんちゃん騒ぎの中でカール・パーキンスが薬物を服用した状態のプレスリーの様子をジョニーに見せ「スカッとするぜ」とあおっている。このトラブルが元で妻・ヴィヴィアンとも離婚。娘達も妻側に引き取られる。

1968年、ドラッグを乗り越え再起。刑務所の囚人からのファン・レターが多いことに気付いていた彼は、自分の歌で囚人を勇気づけようとフォルサム刑務所でのライヴとライヴ盤収録を企画。このアルバム「アット・フォルサム・プリズン(At Folsom Prison)」は1月13日に録音され、同年6月に発売。カントリー・チャートに92週、ポップ・チャートに122週もランクしつづける大ヒットとなり翌年には初のグラミー賞も受賞しシーンに返り咲く。

1968年、オンタリオ州でのコンサートで演奏中にジューン・カーターに「君と結婚したい。今返事してくれないとこれ以上歌えない」と電撃プロポーズ。後世に語られる伝説のプロポーズとなる。翌週2人はケンタッキー州で結婚。

1969年、TVで彼がMCを務める『ジョニー・キャッシュ・ショー』の放映が始まる。ゲストでボブ・ディランやニール・ヤング、リンダ・ロンシュタット、エリック・クラプトンら多数のミュージシャンが出演。同年、ディランと『北国の少女(Girl From The North Country)』をデュエットで録音し発表。また、サン・クエンティン州立刑務所でのライヴ録音を行ったのもこの年である。

1970年4月、当時のアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンに招かれホワイトハウスで演奏。

1974年、TVドラマ『刑事コロンボ』第24話「白鳥の歌」に、妻を謀殺するミュージシャン役で出演。劇中にはジョニー自身のライブパフォーマンス映像が挿入され、話題となる。 

1971年、ベトナム戦争への自らの意見を盛り込んだアルバム「マン・イン・ブラック(Man In Black)」を発表。カントリー・チャート1位。

1977年、第4回アメリカン・ミュージック・アワードで功労賞を受賞。

1985年、いずれもカントリー界の重鎮であるウィリー・ネルソン、ウェイロン・ジェニングズ、クリス・クリストファーソンとともにスーパーバンド「ハイウェイメン」を結成。アルバム、シングルともにチャート1位を独占し、音楽賞レースも総なめにした。

1993年、アイルランド出身のロックバンド・U2のアルバム「ズーロッパ(ZOOROPA)」中の『ワンダラー(The Wanderer)』にゲスト参加。

1994年、気鋭プロデューサー、リック・ルービンによって本格的にソロ活動を再開。MTVでビデオクリップが集中オンエアされ、ロック世代の若者からのファンが急増。ちなみにルービンは元はラップのプロデューサーでRun-D.M.C.のプロデュースによりエアロスミス復活にも貢献した人物だが自身のレーベル「アメリカン」を創始後はトム・ペティらと契約するのを革きりにドノヴァンらルーツ・ミュージックのアーティストの復活に貢献し、その後も2007年度グラミー賞でベスト・プロデューサー・オブ・イヤーを受賞するなど幅広い活躍で知られる。

2002年、マーク・ロマネクによりアルバム「American IV: The Man Comes Around」から、ナイン・インチ・ネイルズのカヴァー曲『Hurt』のプロモーションビデオを撮影。後の2003年に、MTV Video Music Awardsの最優秀ビデオ撮影賞を獲得。2005年には、英国の携帯電話会社3による「歴代最優秀ビデオ・トップ20」に於いて第1位を獲得した。ナイン・インチ・ネイルズのフロントマンであるトレント・レズナーは、このPVについて「涙が出た。背中を押された気持ちになった」[1]とコメントし、当時のスランプからの脱出の契機の1つになったとしている。また、監督を務めたマーク・ロマネクは「自分にはこれ以上の作品をもう作れない」という趣旨のコメントを残した。

2003年5月、最愛の妻ジューン・カーター・キャッシュが73歳で死去。同年7月のライヴ・パフォーマンスを最後に、自身も妻の後を追うように9月に死去。71歳。

2005年、彼を題材にしたジェームズ・マンゴールド監督映画『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道("Walk The Line")』が公開。批評家からも高い評価を受け、第78回アカデミー賞5部門でノミネートされ、主演女優賞を受賞したほか、数々の賞を受賞。また、映画の公開に合わせ、ベスト盤である「レジェンド・オブ・ジョニー・キャッシュ(The Legend Of Johnny Cash)」や映画出演者が吹き替えなしで歌唱に挑戦したサウンドトラックが全米チャート上位にランクインした。[要出典]2006年6月、遺作集『パーソナル・ファイル』発売。

2007年4月、1968年から晩年まで居住し『Hurt』のPVの撮影でも使用されていたナッシュビルの自宅が火事で全焼。建物はビージーズのバリー・ギブが購入しており、別荘として使用する為に改築を行なっていた


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by AZUMARIKISHI | 2012-09-07 18:07


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